前記事(
027 ペリリュー島へ① - Alii!! 南の島パラオから「こんにちは」
)に引き続き、ペリリュー島で学んだことについて、今回もお伝えしていきたいと思います。
🔵ペリリュー第二次世界大戦記念博物館
続いて向かったのは、第二次世界大戦記念博物館。博物館の前には、当時のプロペラ機のプロペラがそのまま残されていました。
中央部分に日本語で「プロペラ廻転…」と書いてあるのが読めます。
こちらが、第二次世界大戦記念博物館。元は日本軍の燃料貯蔵庫だったそうです。現在は建物の劣化の関係から、博物館としても残念ながら休業中でした…。
元々はペリリュー島に4つあった燃料貯蔵庫のうち、1つだけ残っているのが、この貯蔵庫です。
写真からは大量の爆弾が落とされたことがわかります。
むき出しになった建物の骨格。
このななめの位置から砲撃が通過したのがよくわかります。こんな状態になっても、建物が建物の形のまま80年以上姿を残していることで、いかに日本が強固な建物を作ることができていたかがわかります。
不発弾もありました。
雨ざらしの空の下で、放置されたままの爆弾たち。
こちらは、人間魚雷「回天」。ここに人が乗って敵船に向かって特攻攻撃をしていたなんて…。教科書で学んだことはあったものの、実物を見て言葉を失いました。
🔵日本軍総司令部跡
旧飛行場のすぐそばにある、日本軍総司令部跡です。海軍航空隊の司令部として使われていた建物だそうです。
2階建ての建物で、中に入って見学することもできました。
壁には無数の銃痕、そして天井にはぽっかり穴が空いていました。
この建物だけでも、800kg以上もの爆弾が落とされたそうです。
そして、建物の奥側には、2階の別室に向かう扉も見えました。この厳重に守られた扉の中は、電信室だったそうです。軍が一番大切に守ったのは「情報」だった…ということです。
扉の厚みが、建物の頑丈さを物語っていました。
爆撃の跡が生々しくたくさん残っていますが、いまだに建物として立派に残っています。80年も経ち、攻撃もたくさん受けたのに…日本の建築技術の高さを感じさせられます。
「日本がつくる建物は頑丈で立派」という認識がパラオの中でも強くあり、いまだに台風の際にはペリリュー島の島民たちが、この総司令部跡に避難をしに来るそうです。
外側から見ても、太い柱を基調にした骨組みがしっかり残っています。
こちらは、お風呂。
こちらは、炊事場のようです。
総司令部跡のすぐ隣には、防空壕がありました。
🔵日本軍戦車
旧飛行場のすぐそばには、日本軍の戦車が残されていました。
錆びており、中身は草だらけですが、ボディはとてもしっかりしていました。
青く茂った緑と、戦車。生と死の対比を考えさせられました。
こちらが、飛行場。今は米軍による再軍事化が進められており、もうしばらくすると、飛行場をのんびりとツアーで突っ切ることはできなくなるのではないかとガイドの方がおっしゃっていました。太平洋戦争の激戦地ペリリューで再軍事化が進められているなんて…。戦争は他人事の話ではないと思い知らされました。
🔵オレンジビーチ(米軍最初の上陸地)
1944年9月15日に始まった米軍最初の上陸地点、西海岸のオレンジビーチの慰霊モニュメントです。
この慰霊モニュメントを通過してしばらく歩くと、オレンジビーチに到着します。
オレンジビーチ──当時、米軍が使用していたコードネームですが、今もそのままの名前が使われています。米軍上陸時は、待ち構えていた日本軍の一斉射撃によって、海は真っ赤な地で染まったそうです。
この穏やかで美しいビーチで、80年前に何て悲惨なことがあったのだろう。世界の人々の幸せと平和な世を願わずにはいられません。
🔵52型零式艦上戦闘機
続いて、52型零式艦上戦闘機─ゼロ戦のもとへ向かいます。
草だらけのジャングルの中に、ゼロ戦が。
機体に空いた大きな穴が、攻撃を受けたことを物語っています。
パラオにはジャングルや海底等に、いまだにたくさんのゼロ戦が残されていますが、ここでは操縦席もしっかりと見えました。
ゼロ戦は英語でZero Fighterと呼ばれ、その機動力の高さから多くの敵兵に恐れられていたそうです。「ゼロ戦に遭遇したら、戦わずに逃げろ」と言われていたほど。ただ、スピードを上げるために機体を軽量化した結果、薄い外板を使っていたのが致命的な欠点となってしまいました。
🍚お昼休憩
昼休憩は、南端のサウスドッグへ。パラオでは、海の近くに、こうして子供用の遊具が設置してあったり、人々が座って食事ができる長机&ベンチが置いてあったりすることが、よくあります。ちなみに、ベンチはパラオ語で「ヤスンバ」と言い、語源は「休み場」です。
サウスドッグの端には、米軍の第一海兵師団の慰霊碑がありました。
当時、「世界最強」と謳われていた米軍海兵隊。ペリリューの戦いでは日本軍の粘り強い抗戦に翻弄され、ここでの戦いは「太平洋戦争で最も激しくもっとも混乱した戦闘」と言われていたそうです。
また、道端には古い船がそのまま残されていました。おそらく漁船だったのだろうとのことでした。
🔵平和記念公園
続いて、ペリリュー平和記念公園へ向かいました。平和記念公園には、1985年につくられた西太平洋戦没者の碑がありました。
慰霊碑の中央には、半眼のモチーフがあり、日本の方角を向くように取り付けられています。戦争で亡くなった人たちの魂が迷わずに日本へ帰ることができるように…という願いが込められているそうです。
西太平洋戦没者の碑には、日本語と英語で平和への思いが刻まれていました。
「さきの大戦において 西太平洋の諸島及び海域で 戦没した人々をしのび 平和への思いをこめて この碑を建立する」
また、ペリリュー島は天皇皇后両陛下が2015年に戦没者を慰霊するために訪問された島でもあります。天皇皇后両陛下御訪問記念のモニュメントもありました。
ペリリュー島の戦いは2・3日で終わると米軍から想定されていたのにも関わらず、実際は戦いが長期化しました。そのため、当時の天皇陛下もペリリューの様子を気にされ、御嘉賞(天皇陛下からのお褒めの言葉。当時は、これが頂けるのは大変誉れなことだった。)を11回も贈られたそうです。この回数の多さは異例のことであり、ペリリュー島は米軍から「天皇の島」と呼ばれていたほどでした。
ペリリュー島民の皆さんは、日本の天皇皇后両陛下がペリリューを訪れたことを今でも誇りに思ってくださっており、訪問日の4月9日はペリリュー州の休日になり、毎年記念式典が行われているそうです。(コロナ禍を除く)
🔵米軍水陸両用戦車
続いて、島内中央部に放置されている米軍水陸両用戦車へ向かいました。
先ほどの日本軍戦車は約7.5トン。それに対して、この米軍水陸両用戦車は30トンも重量があるそうです。どれだけ兵力に差があったかを思い知らされます。
錆びてはいるものの、いまだに左側の歯車を回転させることができ、頑丈なつくりの水陸両用戦車であることがよくわかりました。
その戦車の横の小道を上っていくと…
日本軍の大砲の跡がありました。
大砲の先は東側を向いていましたが、実際に米軍は西海岸から上陸したため、この大砲を使うことはなかったそうです。岩壁の間から突如現れる大砲は、とても大きいものでした。
また、大砲の近くには捕虜収容所に使われていたと思われている場所もありました。
🔵終焉の地(大山/ブラッディ・ノーズ・リッジ)
ツアーの最後に、「日本軍終焉の地」へ行きましたが、その前にペリリュー神社に寄りました。
戦前につくられた神社が1982年に再建されたものです。
神社の後は、いよいよ日本軍終焉の地へ。ペリリュー島で米軍の上陸後、日本軍総司令部等が制圧された後、日本軍は島中央部にあるペリリュー最高峰の「大山」で徹底抗戦をしました。日本軍からは「大山」と呼ばれていますが、米軍からは「ブラッディ・ノーズ・リッジ」つまり「鼻血だらけの尾根」と呼ばれたほど、たくさんの血が流された場所です。
いまだに不発弾が多く残っているため、決められた道以外は絶対に歩かないようにと念押しされました。ジャングル道ではありますが、人が通れるように整備されていました。
いまだに不発弾が残っているなんて…。
案内板には、生々しいヘルメットが掲げられていました。ペリリュー島では10022名の日本兵が戦死しました。このヘルメットも亡くなった誰かがかぶっていたのでしょう。
この大山でも、日本軍は洞窟陣地を駆使して激しく抵抗しました。500以上も作られた洞窟陣地はかなり複雑に配置されており、米軍が来るのを待機して洞窟の中から攻撃し、米軍が反撃しようとすると、洞窟内で連携を取り合って別の洞窟の穴から攻撃をする…といった具合で戦闘を積み重ねていたようです。
こんなに小さなサイズの穴があちこちに掘られていました。
ペリリューではいまだに見つけられていない遺骨が数多くあり、遺骨収集が続けられています。
いよいよ、終焉の地の慰霊碑に到着しました。ペリリューの戦いでは、日本本土への米軍到着を少しでも遅らせるため、日本軍の自決行為が禁止され「徹底抗戦」が叫ばれ続けていました。そのペリリューでも、いよいよ最後の土地となった大山のまわりが米軍に囲まれ、あとわずかで米軍に到達されるというところで、指揮官の中川大佐は玉砕を決意せざるをえませんでした。
そして、1944年11月24日、軍旗と機密書類を処分し、中川大佐は最後の電報を司令部に打ちました。その内容は「サクラ、サクラ、サクラ」。これから玉砕して散ることを暗示した電報でした。その3日後の11月27日。ペリリュー島は米軍によって完全に占領されました。
ただし、実際の戦闘はまだ続いていました。ペリリュー島内のあちこちの地下壕内で潜んでいた日本軍兵にはペリリュー玉砕の報どころか、1945年8月15日の日本の敗戦すらも伝わらず、日本兵生存者たちはいつか援軍が来ると信じて息をひそめながらこの地で生き続けていたのです。34名の日本兵生存者たちが米軍に帰順したのは1947年4月のことでした。
「ペリリューの戦い」を描いた漫画「ペリリュー ー楽園のゲルニカー」を読んでから、今回ペリリュー島に行きました。34名の日本兵生存者のうちの1人が主人公となっている漫画です。作者の武田さんが何度もペリリューを訪れて描いた漫画で、日本のみなさんにぜひ読んでもらいたい書です。
楽園と呼ばれるほど美しいパラオ。でも、その楽園で80年前に何が起こっていたのか。二度と同じ悲劇を繰り返してはいけないと改めて思いました。
自分にできることは、まず目の前の一人を大切にすること。そして、知ろうとし続けること。伝えようとし続けることだと思いました。今後もパラオでの生活を通して、日本の皆さんに発信し続けていきたいと思います。