🏝ペリリュー島へ
話は昨年にさかのぼりますが…12月にペリリュー島に行ってきました。
恥ずかしながら、協力隊でパラオへの派遣が決まったときに「パラオ」の国名を知らなかった私も、「ペリリューの戦い」の名から、ペリリュー島のことはなんとなく聞いたことがありました。第二次世界大戦の激戦地であるペリリュー島に行ってみたいとパラオに来てからずっと思っていましたが、12月についにペリリュー島に行くことができました。
パラオの大都市コロール(Koror)から南へ向かうとペリリュー島(Peleliu)に到達します。
ロックアイランドツアーカンパニーという会社のツアーで、ペリリュー島戦跡ツアーに参加です。まずはボートに乗るところから!
ボートに乗ったときは大雨でしたが、少しボートに乗ると、途端に青空に。パラオの天気は本当に変化が速いです。
世界遺産にもなっているロックアイランド(古代のサンゴ礁が隆起してできた石灰岩の島)を通過して、ペリリュー島へ向かいます。青い空、白い雲、そして美しい水色の海です。
ボートに乗ること約1時間。ペリリュー島に到着しました。
ペリリューの玄関口。北端のNORTH DOCK(北波止場)に到着です。ここでツアーガイドさんが入島税を払ってくれました。
日本語で書かれた大きな看板。
こちらは定期船のNIPPON MARUⅡ。地元の方々が乗る船で、毎日運航しているわけではないそうです。
パラオにある船の名前なのに、NIPPON MARU…。パラオとの深い絆を感じさせられます。
車のナンバープレートもすべてペリリュー(PELELIU)。ペリリュー島に来たんだなぁとしみじみ実感。
小型のバンに乗って、ペリリュー島戦跡ツアーが始まりました。
🔵「ペリリューの戦い」とは
ペリリューの戦いとは、第二次世界大戦中、1944年9月15日から11月27日にかけて行われた日本軍とアメリカ軍の陸上戦のことです。当時、連戦連勝を重ねていた米軍の海軍は、1944年3月から日本軍への攻撃を開始し、ペリリュー上陸から3日以内に戦闘を終わらせることができると想定していました。しかし、そこから日本軍守備隊が500以上にも渡る洞窟陣地などを利用して徹底抗戦し、陸上戦は2か月間にも及びました。この間、米軍は約48000名が動員され、戦死者は8500人以上。日本軍は約10500名が動員されそのうち、10022名が戦死したと言われています。
ペリリューの戦いの直前に、サイパンが陥落しており、サイパンでは自ら命を絶つ「自決行為」によって、兵士だけでなくたくさんの民間人も命を落としました。ペリリューでは、サイパンの戦いでの反省も踏まえ、「自決行為」は一切禁止され、とにかく戦いを長期化させる「徹底抗戦」が第一優先とされたそうです。
🔵トーチカ
まずは、バス車内からトーチカを見学。
トーチカとは、鉄筋コンクリート製の防御陣地を表す軍事用語で、日本語にすると特火点と訳されるそうです。ペリリューにはトーチカが500以上もあったとされています。壁面につくられた穴から銃口を出しながら見張り、周囲を警戒するための塀が、このトーチカです。ガイドさんいわく、このトーチカが壊れずに残っているということは、この位置ではそこまで激しい戦闘が繰り広げられなかった証…とのことでした。
こちらは、ペリリュー島と隣の小島Ngedbusを結んでいた橋げたの跡。
当時は、ペリリュー島の隣に浮かぶ小島Ngedbusにも日本人が住んでいたそうですが、まず米軍はペリリュー島とNgedbusを結ぶ桟橋を破壊し、小島への移動の手段を絶ったそうです。
🔵千人洞窟
続いて、千人洞窟へ。
ガイドさんは、元自衛隊員だったお方で、本当に丁寧に私達に説明してくださいました。「ペリリューの戦い」をしっかりと伝えたいとの使命感をもち、ペリリュー専門でガイドをされているスゴイ方です。
「千人洞窟」の名の通り、千人規模が入れるようにつくられた洞窟。入口はしゃがまないと入れないほどの小さなサイズです。
地図のようなものがありました。この通り、複雑に入り組んだ洞窟がつくられたことがわかります。
この千人洞窟は、陸軍ではなく海軍の「隧道隊」(トンネルを掘るための部隊)がつくったものだそうです。当時は火薬の量も限られており、ほとんど手作業で掘られた洞窟だとのこと。ただでさえ暑い熱帯雨林のパラオの土の中で、どれだけ蒸し暑かっただろうかと想像させられます。
懐中電灯を片手に、奥へと進んでいきます。全部で33の部屋がある284mもの長さの人口洞窟です。
ビンのかけらが当時のまま残されていました。
こちらにも、ビンのかけらが。戦況が落ち着いていた頃はまだ酒盛りをする余裕があったのではないかと考えられています。
こちらにも、当時のまま残されたたくさんのビンや遺留品の数々。
ここは、医療室だったのではないかと考えられている場所です。
こちらは、弾を立てていたとされているケース。
千人洞窟はまだまだ道が続いていますが、見学はこのあたりまででした。壁がところどころ黒くなっているのは、火炎放射器で焼かれた跡だそうです。ペリリュー島での組織的戦闘は1944年11月27日に終わりますが、この洞窟は翌年1945年2月まで少数の日本兵が立てこもり、洞窟を明け渡さなかったといわれています。
🔵トーチカ
こちらも、日本軍が作ったトーチカです。
こちらのトーチカの銃口を入れる穴は特徴的。
内側が狭く、外側が広くなっていることから、より幅広い面積を狙い打ちすることができる作りになっています。
日本のお城でもたまに見られるこの形。日本流の知恵が活用されていたのです。
🔵ペリリュー小学校
こちらは、戦跡ではありませんが、ペリリュー小学校。
広い校庭にバレーボールコートやバスケットボールコートも完備。ペリリュー小学校は全国体育大会でも結構強い学校です。
🔵戦没者慰霊碑
続いて向かったのは、戦没者慰霊碑。ペリリュー島の共同墓地の中に、日本の戦没者慰霊碑が建てられています。
こちらは、ペリリュー島の方々の墓地。キリスト教徒が多いパラオでは、墓地で多くの十字架が見られます。
その反対側を見ると、たくさんの日本語が。まずは、「沖縄の塔」。当時、ペリリュー島に動員された日本兵は沖縄出身者が多かったそうです。
こちらは三十四(みとし)会が建立した慰霊碑。「戦友よ安らかに」と書かれています。ペリリューの戦いでは、1944年11月27日に日本軍司令部が玉砕して組織的戦闘が終了しますが、その後も敗戦を知らない日本兵が生き残りました。34名の日本兵生存者達は、食糧をやり繰りしながら、なんと1947年4月まで洞窟内などで生き残った後、米軍に帰順しました。三十四会は、この34名の日本兵生存者がつくった会のことなのです。
こちらは、ペリリューの戦いを率いた中川州男中将の慰霊碑。中川中将は徹底した現場主義者で、島内の要塞化した洞窟の建設を指示。また、民間人をパラオ本島へ疎開させ、民間人犠牲者をペリリュー島で出さなかったとされています。
他にも、数々の慰霊碑が。
そして、こちらがペリリュー戦闘者慰霊碑みたま。
ペリリュー・パラオをはじめとする世界の平和を祈り、お線香をあげました。
戦没者慰霊碑みたまと、ペリリュー共同墓地。今日も、ペリリューの地元の方々が草刈りや整備をしてくださっているおかげで、きれいに整った状態を維持することができています。
この美しい島ペリリューで80年前に何があったのか…。日本人として、平和を求める一人の人間として、もっと学んでいかなければいけないと改めて思いました。
ペリリュー島へ②につづく。